光仁天皇の宝亀二年(771)に加茂三十八か村の総氏神として建てられました。応仁から明応年間まで、戦乱のため仮社となりましたが、永正年間、虎倉城主 伊賀久隆の崇敬を受け、社殿を新築し社領百石の寄進を受けて加茂大祭も復活しました。しかし天文年間、伊賀氏も備中松山城三村家親に敗れて社領は没収されました。その後寛文九年(1669)岡山藩主池田光政公祈願として社殿を新築、神領六石を寄進されました。

本殿に奉納されている木額(文化六年己巳九月)は風雨にさらされ、板面は凸凹していて判別しにくいが、その文中に素戔嗚尊、高祖山最高峰(海抜326メートル)に仮の宮を定め、尊の頭文字素の一字を取り素社宮と書き、郷民はソウジャ宮と唱えたことが記されています。さらに御子大己貴神(大国主命)を祀り、後年には山麓の平地(元神村で今の元兼)に宮造御遷宮をし、素を惣の字に改め惣社宮と呼びました。

昔、惣社宮であったことは、石の大鳥居の社名彫刻でも推察できます。総社棟札によると「一国之尊神而萬之霊鎮也」とあって、加茂郷諸社中鎮座最も古く、備前国総神明帳に津高郡十社の内、従四位神の明神と記録されているのは当社のことで、近隣諸社の総元締めであることは、千年近くの歴史を誇る加茂大祭の伝統ある神事が物語っています。


総社宮では10月の第3日曜日に、970年以上続く寄宮祭という珍しい形式の、歴史ある祭り「加茂大祭」が執り行われます。
「加茂大祭」の詳しい情報は以下の特集ページをご覧ください。

特集_吉備中央町 祭

 

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吉備中央町加茂市場1567
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